いつも通り机に向かって、ただ黙々とデスクワークをこなし続ける。
そう、いつも通りのはずだ。
だがどうにも仕事に集中できず、結局諦めた吉羅は溜息を吐くと、一時仕事を中断した。

コーヒーでも淹れるかと椅子から立ち上がり、コーヒーメーカーの方へと歩いてゆく。
そして、元いたデスクではなく、革張りのやたら高級感があるソファに腰を下ろして、カップを持ち上げた瞬間ふと気づいた。

一人分のはずのカップは、無意識に二人分用意していた。
しかも自分のためのブラックはともかく、もう片方はーー明らかに別の人間のためと思われる、ミルクと砂糖を入れたものである。
ようやく自身の行動を自覚して、吉羅は今度は自嘲するように苦笑する。

「全く・・・やきがまわったかな、私は」

一人で仕事をするなど、少し前までごく当たり前のことだった。
しかし、今の自分はたった一人のーーそれも自分が理事長を勤める学院の生徒の、少女のことで、これほどに思考を乱されているとは。

学院は冬休みに入ったものの、香穂子は今も熱心に、学内の練習室でヴァイオリンの練習をするため通っている。
以前は吉羅がいるこの理事長室にもよく訪れていた。
夏休みもまたしかりだ。
ところが、ここ数日はほとんど姿を見かけない。
窓から目撃することはあっても、足早に帰ってしまい、接触できずにいた。
ここまで来ると、やはり避けられているような気がしてならない。

最後に会ったのはクリスマスイブ前日に、コンサートに行って食事をした時。
特にその際、疎まれるようなことをした覚えはないのだが。
分かってはいたが、やはり年も離れているし、高校生の彼女の心は時折このように見えない。

一口自分で淹れたコーヒーを喉に流し込むと、今の心境を表すような苦味が口中に広がり、吉羅はまた重い溜息を吐いた。









恋ゆえに








今日も今日とて、香穂子は予約した練習室で、思い切り時間いっぱいヴァイオリンを弾き続けた。

「あ、もうこんな時間なんだ」

予約した時間の終わりがもうすぐ来ることに気が付き、構えを解くと、楽器をケースにしまったり、楽譜を鞄に詰め始める。

冬休みになっても、香穂子の行動はほとんど普段と変わらない。
終業式でもあったクリスマスイブの日に、放課後友人たちと集まって簡単なクリスマスパーティーと忘年会を兼ねた打ち上げはしたが。

特に今年は受験生であり、勉強ももちろんしなければいけないが、だからといってヴァイオリンの練習を疎かにはできない。
他の音楽科の学生たちに比べれば、知識も技術もまだまだ及ばないのだから。

そんな殊勝なことを考えていると、いつもそう自分に説いている、今同じ学内にいるであろう彼のことが思い浮かぶ。

「きっと今日も仕事で来てるよね・・・会いたいなぁ・・・」

いつもの自分なら絶対思っても口にしない言葉がぽろっと出てきて、香穂子はギョッとした。
防音のこの部屋で誰も聞いてはいないはずだが、思わず周囲を見回してしまう。

そう、ひとつだけ彼女の行動は、いつもと違うことがある。

吉羅に会っていないのだ。
正確には、会わないようにしている、のだが。

同じ学院に来ているのに、何故会いに行かないのか。
その理由となる出来事があったのは、数日前のクリスマスイブのこと。











「冬海ちゃん。それ、クリスマスプレゼント?」

「あ、いえ・・・クリスマスはもう用意したんですけど、その時の毛糸が余ったので、時間もありますし、バレンタインの贈り物も編もうかなって」

「へえ、すごい!料理も上手いし、お裁縫や編み物も得意なんて、ホント冬海ちゃん女の子らしいよね〜!火原先輩も幸せ者だな〜」

「そ、そんな・・・でも、嬉しいです。ありがとうございます」

冬海と火原は、彼が卒業する日に彼女に告白をし、晴れて恋人同士になった。

元々、冬海はオケ部に入部してから、気さくに話しかけてきて、何かと気にかけてくれる火原をずっと意識していた。
いつ決着がつくのかと周りはハラハラと見守っていたのだが、卒業式の後、ようやく火原が動いたことでこの問題は解決したのだ。

今では、はたから見ても、互いに相手を思いやり、大切にして、優しい恋を育んで幸せなのがよく分かる。

香穂子も、大切な後輩で親友が本当に幸せそうな、柔らかい笑顔を浮かべている姿に、自然と表情が綻んでいた。

「本当に器用だね。これは何を編んでいるの?」

「セーターです。2月までまだありますから、十分作れると思います」

「手編みのセーターか・・・」

ここでふとずっと年上で、裕福で、ポーカーフェイスで、でも意地悪な笑みを浮かべるかと思うと、たまにひどく優しい目をする想い人のことを考える。
もうすぐ訪れるかの人の誕生日だが、そんな人だから何を贈ったら喜んでもらえるのか分からずに、いまだプレゼントを用意できないでいた。
これはいいかもしれない。

「あ、あの・・・先輩・・・?」

冬海の声に、自分が一人で何を考えていたのか気づき、みるみる顔が熱くなるのが分かった。

「香穂先輩・・・?どうなさいましたか、顔が赤いですけどお風邪でも・・・」

「ふっふっふ、違うよ冬海ちゃん。香穂、今気になる男のことでも考えたでしょ」

「そ、そんなことないよ!暖房が効きすぎて熱くなってきただけ!」

そう、言えるはずがなかった。

よりにもよって、あのいつも偉そうで、意地悪で、年がひと回り近くも離れている、学院の理事長に片思いをしてるなんて。
いかに信頼しているこの二人の親友相手でも、自分の想いがとても実る要素が思い浮かばない上に、まだ生徒である今、これは絶対の秘密にするべきだった。

「そうですか?でも、無理はしないでくださいね、先輩」

「うん、ありがと、冬海ちゃん。
・・・で、あの、ね・・・私も編み物したいなぁって思うんだけど、よければ教えてくれないかな?」

天羽が明らかに面白がっている表情を隠そうともせず、興味津々で自分を見ているのを無視して、香穂子はそう切り出した。

「もちろん、いいですよ。何を編みたいですか?」

「ちょっともう時間があまりないんだけど・・・1週間くらいで完成させたいかな」

「でしたら、マフラーはいかがですか?
先輩は器用ですから、十分間に合うと思いますよ」

「そう?じゃあそれでいいや。よろしくね、冬海ちゃん」

「いいえ、こちらこそ。じゃあ今日は毛糸を買いに行って、明日から始めましょうか」

こうして、香穂子の編み物修行が始まり、さらに、ヴァイオリンの演奏がやはり一番喜ばれるのではとも思ったので、そのための曲の練習も同時に始めた。

そして、自分の馬鹿がつくほどの正直すぎる性分は理解しているので、会ったら言いたくなりそうで、当日まで秘密にするため彼に会わないようにしていたのだ。

片づけを終えた香穂子は、持参してきた毛糸を入れた紙袋と鞄とヴァイオリンケースをつかむと、足早に練習室を出る。
廊下を吉羅が居ないか、細心の注意を払いながら、今日も編み物を教えてもらうため、急いで冬海の家へと走って行った。



「よし・・・できた〜!」

そうして自宅と学院と冬海の家の往復と、時に公園で教えてもらったりもする日々が続き、ようやくマフラーが完成すると、香穂子は感嘆の声をあげた。

「本当に間に合ったよ、冬海ちゃんのおかげだね・・・ありがとう!」

「いいえ、先輩は本当に頑張ってましたから・・・。
お手伝いできて私も嬉しいです」

「うん・・・でも喜んでもらえるかな」

「はい、もちろんです。香穂先輩が頑張って作ったんですから」

「そうかな・・・そうだと、いいな」

教えてもらったとはいえ、我ながらなかなか綺麗にできた完成品に安堵する。

いつも彼が着ている白っぽいコートに合いそうな、ワインレッドの毛糸を選んだ。

改めて、カレンダーを確認する。

12月31日。

吉羅の誕生日である3日に間に合った。

演奏する曲も、リリのお墨付きを得る事が出来、準備は万端だ。

自分の用意したサプライズに、彼がどんな顔をするのかーー

驚いた顔?それとも・・・

あのいつも冷静な人がする反応を想像するだけで楽しく、思わずにんまりと笑みを浮かべてしまう。

すると、クスリと小さな愛らしく笑う声が聞こえて、香穂子が驚いてすぐさま振り返った。

「ふ、冬海ちゃん?」

「あ・・・す、すいません。
でも・・・先輩とても優しい顔をされてたから・・・すごく大切なんですね、そのマフラーを贈る相手のかた」

「そう・・・見える?」

「はい・・・香穂先輩、こないだ菜美先輩が仰ってましたよね。
気になるかたのことを考えてるんじゃないですかって」

にこにこと穏やかで、でも、心の中を見通されてるような、聡明な笑顔を向けられて、香穂子はひどく動揺する。

「う、うん・・・」

「それって、恥ずかしいことじゃないと思うんです。
むしろ、そんなに誰かのことを一生懸命考えてるのは、素敵なことだと思うから。
誰かのために奏でる音はとても綺麗に響くって・・・私は、先輩たちに教えていただいたから」

「冬海ちゃん・・・」

「だから、先輩の気持ちなら、きっと伝わると思うから。
どうか胸を張って下さい、私も菜美先輩も、応援してますから」

真っ直ぐで純粋な言葉は、香穂子の心に強く響いた。
こんなにも、自分の気持ちを素直に言えたなら。
それは、どんなにいいことだろうか。

香穂子は、目の前の後輩がとても羨ましく思えてならなかった。


「・・・おい、吉羅。お前ペース速すぎだ、つぶれるぞ」

「いいじゃないですか。そしたらたまには先輩らしく、家まで送ってくださいよ金澤さん、代行は頼んでますし」

「ったく・・・珍しくお前から飲み行こうって電話があったと思ったら、これだからな・・・」

「酒代は私が払うんですから、それくらい大したことないでしょう」

金澤は自棄になってる後輩をたしなめるのを諦めて、溜息を吐いた。

普段の吉羅は、いつだってカッコつけで、できないことなんてないといった仏頂面で隙を一切見せない。
だが、高校から先輩としての付き合いがある金澤に言わせれば、実際のこの男は、かなりのわがままで甘ったれだ。

しかし、これほどみっともなく駄々をこねられるのも、カッコ悪い姿を見せられる相手も、そう多くはない。
そのためにお鉢が回ってくるのは、彼の姉の美夜がいなくなってからは、自分であることが多かった。
それでも、自分相手にもそうそう理事長になってからはなくなったのだ。

だから、何だかんだ言っても元日の夜、電話が吉羅からかかってきた時点で、何かあったのだと察しはついていた。
今夜くらいは付き合ってやるかと覚悟を決めると、金澤は話を切り出す。

「・・・で?何があったんだ、具体的には」

「別に・・・ただ、気に入らないだけですよ」

「だから、何が」

「ずかずかと人の領域に遠慮なく入ってきたかと思ったら、何も言わずに顔も見せなくなったり。
本当に、あれくらいの年頃の少女は何を考えているのか、理解が出来ない」

そう言う吉羅の顔は、30超えた男がする顔じゃないだろうと言うような、子供っぽい拗ねた表情だった。
かつて自分が、彼と違って真面目にコンクールに取り組もうといった殊勝な態度を取らないのに、セレクションで優勝をかっさらった時の顔と全く同じだ。

「・・・はぁー、あのな、さして人のこと言えないくらい、大人でもないだろ。俺もお前も」

遠慮も飾りも無い率直な意見を口にすれば、こちらを見る吉羅は、今度はひどく間の抜けた整理ができてないらしい顔をする。

だが、それくらい一切の手心を加えない思ったままを言える相手こそが、この男には必要なのだ。
言える人間が言ってやらなければ、気が付かないで仕事に忙殺されて年をとってしまうだろうから。

「顔を見せなくなってそれが気に入らないってのは、お前が会いたいと思ってるからだろ。
年取ったって完璧なんかじゃないんだ、特にお前なんて俺に言わせれば。
意地張ってすましてばっかでいつでも追ってきてくれると思ってたら、全く見当違いだぞ、拗ねてないでさっさと自分から会いに行ったらどうだ。
本人に聞くのが一番手っ取り早く、考えてること分かるだろ」

あとは吉羅自身が何とかすることだ。

金澤は歩いて帰ることにして店をさっさと出た。
代行が来ることになってるから、一人にしてもどうということはない。

(「何でも器用に出来るって顔をして、実はこういったことには不器用だから厄介だよな・・・」)

吉羅が香穂子に実は本人が思ってる以上に気を許しているーーそれどころか会うことをかなり楽しみにしてることを、薄々気づいてはいた。
香穂子の好きな飲み物を理事長室にストックしたり、休日に彼女を誘って外出したりしてるなど、公私を分けたがるあの男は仕事の延長でそこまでしたりしない。

プライベートな時間に関わりを許すというのは、それだけの存在として認めているということに他ならない。

ところが、そういった恋愛、というものに慣れていないから気づかない。ーー香穂子はともかくとしても、吉羅もまた。
特に彼は姉を失くして以来、誰かを特別に想うことそのものを、避けていた節がある。
まあ一度失恋してから、同じように恋というものを楽観的に考えられない自分も、どっこいどっこいなのだが。

・・・けれど、だからこそ幸せになって欲しかった。
音楽のもたらす喜びを思い出させてくれた教え子と、大切な人を失い、愛というものを避けるようになった後輩に。

夜の街の中、金澤はポケットから久しぶりに煙草を取り出し、火を点ける。
きっと今頃まさに夜の闇をさまようように、悶々と悩んでいるだろう吉羅のことを思い浮かべ、紫煙と共に大きく息を吐き出した。


1月2日。
金澤と共に飲んだ翌日である今日も、吉羅は二日酔いなどにはならずきっちりと出勤していた。
しかし、やはり集中できず夜色の前髪をうっとうしげにかきあげて溜息をつく。

彼女が来ないことでこれほど仕事に集中できないとは思わなかった。
はっきり言って重症である。

ちらりと窓の外を見下ろしてみる。
今日は正月3が日で学院に基本的に人は入れない。
だから、来るはずがないことなど分かっているのに、その姿をつい目で探してしまう。

おもむろにスーツのポケットから携帯電話を取り出して、電話帳を開くとディスプレイをしばしの間睨みつける。

昨夜金澤に言われたことを、ほぼ一晩中考え、そして今も考えていた。
全くその通りだった。

自分のこの気分の悪さも不安定さも、ただ自分が彼女に会いたいからに他ならない。
認めるのは癪だが仕方がなかった。
ここ数日の自分の行動と堂々巡りの思考回路を鑑みれば否定のしようがない。

両手を組んでそこにあごを乗せると、吉羅は再び溜息をついた。

今まで自分が悠然とした、いわゆる「冷静な大人の態度」をとっていられたのは、あくまで自分が慕われているという自信があったからでしかない。
指摘された通りで、香穂子が自分に寄せる好意に気づいていて、そしてそれが当然のようにいつの間にか思っていた。
彼女の真っ直ぐに飾らず向けられる好意と感情は、いつだって吉羅にとって心地よくて。
裏のない態度と思ったままに発される言葉は、彼に安心感を与えていた。
金澤と同じで、そうして自分に率直な意見を言える人物である彼女は、また貴重な存在であったのに。

信頼できる大切な相手なのだとーー会わない日々の中で嫌というほど痛感した。

しかし当たり前に思ってた好意は、今、本当に向けられているのか分からなくて、だからこれほど不安なのだ。

再度、机に置いた携帯電話の画面を見つめる。
そしてもう一度溜息をつくと、吉羅は意を決したように電話を取って履歴画面を開き、通話ボタンを押した。


ベッドの枕元に置いてあった携帯が鳴り出し、香穂子は慌てて開いて画面を見る。
すると、まさか考えもしなかった人の名前が出てて、少なからず驚いた。
少々緊張するが、深呼吸をして自分を落ち着かせてから電話に出る。

「・・・はい、日野です」

「・・・吉羅だ、久しぶりだね」

「は、はい。あ、明けましておめでとうございます」

落ち着かせてから出たはずだったが、実際口を開けば出てきたのは少しかすれた声だった。
会いたいという本音を我慢してようやく聞けた声、しかも彼から電話をしてくれたのが嬉しいというのは隠しきれない。
思わず緩む自分の頬を叱りつけるようにはたく。

「ああ、おめでとう。相も変わらず仕事だがね」

「お疲れ様です。大変ですね、お正月まで」

「君も冬休みに年末ギリギリまで練習していたようだがね。
・・・まあ、いい。それはともかく、君は明日の予定はどうなってるかね」

「え、・・・特に予定は、ないですけど」

正直、香穂子は一瞬言葉に詰まった。
確かに明日は他に何もないが、今まさに話してる相手には会いに行くつもりだったのだ。
しかし、あくまで当日にお祝いの言葉を言って驚かせる予定なのだから、ここで言ってしまっては計画が水の泡である。

「なら、そのまま空けておきたまえ。迎えに行くから」

「え?!で、でも確か明日もお仕事じゃ・・・」

「確かにそうだが、明日はアルジェントがうるさくて仕事にならないだろうからね。
君の好きな所に連れて行くから付き合いなさい、いいね」

確かに、明日はリリも張り切って色々としでかすことだろう。
想像がついて香穂子は噴き出してしまった。

「・・・分かりました」

ふっと沈黙が数秒できる。

「よろしい。では、朝9:00に君の家の前に行くから支度しておきなさい」

「はい、よろしくお願いします」

どこか少し張り詰めていたような彼の声が、柔らかくなったような気がした。

「ああ、では失礼するよ。ちゃんと睡眠をとりなさい・・・おやすみ」

「はい、おやすみなさい」

そう言って少しの間無音になったかと思うと、プツリと通信を切る音がしたのを確認して電話から身を離す。
思ってたより長く一緒にいられることになった明日が一気に楽しみになり、香穂子は優しい気持ちでまどろみに落ちていった。

電話を切った後、吉羅は息を大きく吐き出す。
だが、今度は憂鬱さのにじんだ溜息ではなく、安堵の溜息だった。

電話越しの彼女の声を聞く限り、特に怒ったりしてる様子はなく、むしろ弾んだ声で機嫌は良さそうであった。
それに久しぶりに香穂子の声を聞いて、ホッとしたのは事実だ。

舞い散る粉雪とそれを引き立てるような漆黒の闇に、そろそろ帰るかとコートを掴んで羽織る。

久方ぶりに今夜は落ち着いて眠れそうだと、吉羅は口には出さず呟いていた。


翌朝、ついにやって来た1月3日当日。
少し大人びた清楚なラインの白いコートに身を包んで、香穂子は家の前で待っていた。

準備したプレゼントを入れた紙袋も、ヴァイオリンケースもきちんと持った。
あとは彼が来るのを待つばかりだ。

時計の針が9:00を指した瞬間、約束の時間ピッタリに見慣れた車がやって来て、降りてきた吉羅と目が合う。

「おはよう、あまり外で待たない方がいいのではないかね。冬の朝は冷えるだろう」

「おはようございます、でも大丈夫ですよ。温かくしてますし、寒いけど空気が澄んで目が覚めるからちょうどいいです」

「そうか、まあ無理はしないでくれたまえ」

久しぶりに会ったのに、まず体調管理の忠告から会話が始まるというのは相変わらずだ。
でも、それは自分を心配してくれてるが故だからと知ってるから香穂子はけして不快ではない。

それに何より、吉羅はそんな風には思っていないだろうが、やはり数日ぶりに彼の顔が見れたのが心底嬉しい。

香穂子が笑顔を向け続けるからか、少々厳しい表情で自分を見ていた吉羅も、つられるように微笑んでくれた。

「ほら、冷えるだろう。早く乗りなさい」

そう言うと、すかさず助手席のドアを開けて自分の手をそっと取り、ごく自然に車のシートへと導かれる。

彼はそうやっていつだって、厳しい言葉の割に、こういうところは気配りを忘れずとても紳士的だ。
だからこそ、どんなにからかわれても叱られても、香穂子はこの男性に惹かれずにはいられない。
大人ってずるい、と思う。

「さて、遅くなると渋滞がひどくなる。どこに行きたいか決まってるかね?」

「あ、す、すみません。その前に・・・お誕生日おめでとうございます、これ受け取ってもらえませんか?」

緊張のあまり、声がうわずって早口になってしまったが、どうにか一気にそう言い切ると急いで紙袋の中に入れた包みを取り差し出した。

「私に?・・・開けても構わないかな」

「どうぞ」

彼の長くて少し節ばった指が包みのリボンを解くと、中からあのワインレッドのマフラーが姿を表した。

「最近顔を見ないなと思っていたが、もしかしてこれをずっと編んでいたのかね?」

「はい、お会いしたら言いたくなりそうで・・・でも驚かせたかったからずっとお話しするの我慢してたんです」

それを聞いた彼は、何故かひどく安堵したように、雪が解けたみたいな柔らかい会心の笑顔を浮かべる。

「そうか・・・悪くない出来だ。ありがたく頂こう」

どうやらとても機嫌が良くなったらしいことに、香穂子も幸せな気持ちになる。
今の吉羅は、以前車を運転した際に口笛を吹いてた時の表情と同じ顔をしていた。

「ヴァイオリンケースも持っているということは、演奏も聞かせてもらえるのかね?」

「はい、それはまた後で披露します」

「分かった。それでどこに行くかは決まったかな」

「あ、えっと・・・海に、行きたいです」

冬の海辺は冷えるが、落ち着いて香穂子は嫌いではない。
それに、今時期人は少ない場所だろうから、そこでならきっと演奏もゆっくり聴いてもらえるだろう。

「なるほど、では行こうか」

吉羅は頷くと、静かに車を発進させた。


吹き付ける風は冷たいが、空は快晴で太陽がまぶしく、海は光がキラキラと反射して輝いている。

「綺麗・・・!」

「お気に召していただけたかな」

「はい、とっても!海も空もキラキラしてて素敵・・・」

うっとりと見惚れて輝かせている彼女の瞳の方が、よほど好ましく見てて退屈しないが、と吉羅は一人心の中で呟く。

香穂子の美点の一つは、その素直な所だ。
美しい風景や音楽、美味しい食事を綺麗だ、あるいは美味しいと屈託なく笑って話す。
その姿は、いつだって駆け引きばかりの理事会やらの相手をしている吉羅を和ませた。

「そうだ。あの、演奏を聞いていただいていいですか?」

「ああ、よろしく頼む」

返事を聞くと、香穂子はいそいそとヴァイオリンをケースから取り出して構える。
そして、華奢な指が弓を軽く滑らせると音が響きだした。

最初の曲はHappyBirthday。
それが終わると、今度はジョスランの子守唄が演奏される。

音の余韻が消えた瞬間、吉羅は拍手を送った。

「覚えていたのか、懐かしい曲だな」

「ええ、あの日吉羅さんに歌っていただいて嬉しかったから・・・それにリラックスしてもらえたらいいなって」

「そうだね、確かにくつろげる。悪くない選曲だ」

「良かった。・・・すみません、あともう1曲、演奏してもいいでしょうか?」

「構わないよ」

彼の評価を聞いて香穂子はホッとしたような笑みを浮かべるが、再びヴァイオリンを構えると、演奏に意識を向けるために表情が引き締まる。

今度流れてくる旋律はーー最も自分にとって印象に残る音を奏でた人が得意とした曲だった。


je te veux。
日本語では「あなたが欲しい」という意味の曲。
香穂子はこれを弾くか、練習はしたものの、かなり迷った。

それは、けして技術が足りないからとか、そういった問題ではなくて。

冬海が言うように、想いを伝えること自体は悪い事ではないだろう。
あんな風に真っ直ぐにこの気持ちを伝えられたら、きっと楽だろうとも思う。

けれど、やはり自分は生徒で、彼はその学校の理事長だ。

今想いを伝えれば困らせてしまうのではないか、それに、今のこの中途半端だけど優しい関係を壊しそうで、怖かった。

それでも、心に溢れそうなほどのこの強い想いを、胸にしまい続けるのも苦しくて。

ならせめて、言葉にはまだ出来なくても、この音だけでも受け止めて欲しい。
そんな想いを込めて、今の自分に出来る精一杯の演奏をしよう・・・それが今の自分の結論だった。

だからこれはただの自己満足。
彼に贈る演奏ではあるが、彼のための演奏ではないけれど。
どうかこの音が少しでもこの人の心に優しく響きますように。

願いを込めて香穂子は懸命に、ただ目の前の男のために奏で続けた。

最後の一音が空に消えていった時、しばらくの間沈黙が二人の間に流れた。

ドキドキとした表情で、香穂子が自分の感想を待っている。
だが、吉羅は言葉の代わりに、自分が着ていたコートを香穂子の肩にかけた。
そして、驚いて見上げる彼女をその腕の中に閉じ込める。

「き、らさん・・・?」

「ありがとう」

シンプルで、でもストレートな感謝の言葉をただ贈る。
今はそれ以上の言葉が浮かばなかった。

「良かった・・・でも、どうして・・・」

「ずっと海辺で演奏したら冷えるだろう。風邪でもひいてはいけないからね・・・もう少しこうしていなさい」

有無を言わせないきっぱりとした口調で、吉羅は香穂子を留めた。

普段は人目を気にして、こんな風にこの温もりを独占できる機会はそうない。
もう少しだけこのまま彼女を抱きしめていたかった。

「・・・上手くなった、改善点はもちろんあるが。
しかし何よりの贈り物は、演奏に込められた君の想いに他ならない」

そう、一番嬉しかったのは、他ならぬ香穂子が自分に向けてきた想い。

演奏からも・・・彼女が自分をただ懸命に慕うーーいや、求める想いが伝わってきて、それが吉羅には何よりも欲しいものだから。

「吉羅さん・・・」

「いずれこのお返しはさせてもらおう。欲しいものを考えておきなさい」

吉羅はそう囁いて、ずっと胸に埋められていた彼女の顔を、そっと上向かせるとーー白い頬に、一瞬だけ、かすめるような口付けを落とした。
滑らかな頬に、薔薇のような朱色がぽっと差す。

「・・・気にかかる存在がいるというのは、厄介なものだ・・・早く成長したまえ、香穂子君」

「なっ・・・!」

混乱している様子の香穂子を楽しげに見つめながらも、吉羅は一つの決意をしていた。
そして、ふっきれたように晴れやかな笑顔を浮かべながら、今度は耳元にもう一度囁きを落とす。

「私ももう、君が子供に見えなくて困っているからね・・・楽しみにしてるよ」

そう、もう彼女を子供だと思うことは出来なくなってる。
だから今度は、その想いを言葉で聞きたい・・・そして彼女もまた同じ願いを口にしてくれたなら。
自分もこの想いを、音に乗せてではなく、言葉にして伝えられるだろうーーきっとそう遠くない未来に。

それほどに、相手を求めているのは彼女だけではない。自分もまた同じ。
相手の心が見えず、思考がかき乱されても、時に会えなくて切なく苦しい夜を過ごしても。
厄介な感情なのに、手放すことは出来ない・・・何故なのか。

それはこの想いが恋ゆえに。
ーー相手を求めてやまない心で甘く感じてしまうものーーだから。




あとがき☆
はい、そんなわけで理事長のお誕生日お祝いSSです!

いや・・・文章書いていたら次々言葉が浮かんできまして・・・
まさかの今までの短編中、最長の長さになってしまいました!
ははは・・・いやぁ長かった・・・ぶっちゃけ疲れた・・・

でも、何とか3日に間に合ってよかったです・・・!
ホント間に合わないかと思ったので・・・

今回、理事長はかなり悩ませてみました。
あの人、香穂ちゃんを引っ掛けて余裕たっぷりですけど、実際あんなに本音で話せる相手ってかなり貴重だと思うのですよ。
だからいざ香穂ちゃんが自分を好きじゃないかもしれないと思ったら、すごい焦るんじゃないかなと。
すごく公私を分けたがる人だし、教育者としての使命感とか、同じファータが見える同胞ってだけであそこまでしてくれる人にも見えないですし。
絶対素直じゃないだけで香穂ちゃん大好きだよね!とすごい頑張って今回押させてみました(*^_^*)

名前も呼ばせてみましたよ!呼んでみてほしいんですよね〜香穂子君って!

それから、途中で金やん出したら、これがまた面白くなっちゃたんですよね〜
いつも理事長ってあんなかっこつけだけど、結構金やんの前では色々ダダ漏れな人なので(笑)
実際、金やんもゲームで「わがままで甘ったれ」と吉羅のことを評してますし。
お酒なんて入ったら余計にかっこ悪くてわがままで甘ったれだったりするんじゃないかな〜と(笑)
かっこ悪い理事長も書いてて楽しかったです☆

あと、サイト様をあちこち見てますと、土冬が多いですが、私的には火冬のイメージなのであんな感じになりましたv
同じオケ部だし、結構お似合いじゃないかと思うのですが・・・どうでしょう?
このCPはまた何かで再登場させたいです(*^_^*)

いや〜最近、ホント改めて年の差CPに萌えたので、今回すごい頑張っちゃいました(笑)

何はともあれ、理事長お誕生日おめでとう〜!

*ブラウザバック推奨