一緒にいるから
静寂が包む室内で、律は一人思考に耽っていた。
机の上にはいくつかの楽譜が広げてある。
彼は今、当座の問題であるセミファイナルで演奏する曲選びの真っ最中だった。
最終的な判断はかなでに一任してあるとはいえ、今回は腕の負傷により、自分はメンバーから外れる身だ。
その代役としてアンサンブルの1stを彼女に頼んだため、ようやく馴染んできた定番の編成も新たにした。
そして今回、大会で対戦する相手は、間違いなく苦戦するであろう、あの東金率いる神南高校。
仲間たちの能力を考えてこの編成にしたのだから、勝算はもちろんある。
だが、限られた期間で他ならぬ彼女が実力者ぞろいの神南相手に渡り合わなければならないのだ。
そのかなでの演奏の良さを少しでも活かせる曲を選ぶに越した事はないだろう。
部員を、彼女を信頼してはいるものの、だからといって全てを任せきりにするような無責任な真似などできるはずがない。
演奏を出来ない以上、出来る限りのサポートをする義務が律にはあるし、彼自身もそうしたいと思っている。
そのため、律は寮に帰ってきてからずっと部屋に篭もって、明日の打合せ前に意見をまとめようと、もう随分長い間、眉間に皺を寄せて考え続けていた。
「技巧が重視される曲は、小日向の得意とするところではないな。
それならば、東金のほうがよほど優れているのは明らかだ。あいつの演奏の特長をアピールできて、評価も得られる曲があれば・・・」
考えに没頭する余り、扉の向こうから聞こえる声も、ノックの音も、彼の耳に届くまでには時間がかかった。
「――くん、律くん?中にいる?」
「?・・・小日向か?」
「うん、あの、晩ご飯に今日出てこなかったんだよね?
夜食を持ってきたんだけど、よかったら食べる?」
「・・・そうだな、待ってくれ、すぐに開ける」
ようやく、部屋の外で自分を呼ぶかなでの声に気づき、律はすぐに立ち上がりドアの鍵を開ける。
すると、いつも通りこちらを真っ直ぐに見る少女が、にこにこと笑って立っていた。
「ごめんね、突然。驚かせちゃった?」
「いや、少々考え事をしてて気づかなかっただけだ。ありがとう、入ってくれ」
持った盆で両手がふさがってる彼女が入りやすいよう、ドアを開いてやったまま、律は中へと導いた。
「ありがとう、ここに置いていい?」
「ああ、俺のほうこそ悪かったな」
律の言葉を聞くと、かなではおにぎりと、自分の好物であるだし巻き玉子を盛り付けた皿が載せられたお盆を机の端に置く。
その時、机に広げてあった楽譜の存在に気づいた。
「譜読みをしていたの?」
「いや、次の大会で演奏する曲は何がいいだろうかと、俺なりにどれが一番いいか考えていた」
「・・・そっか、ごめんね、心配ばっかりかけちゃって」
「そうじゃない、お前たちにばかり全てを押し付けるわけにはいかないだろう。
どうするのが最善なのか、考える事は俺が好きでしていることだ。だからお前がそんな風に気にすることはない」
しゅんとしてしまった彼女を励まそうと、律はすぐにそう口にしていたが、かなではぶんぶんと音が聞こえそうな程大きく首を横に振る。
「ううん、違う。それは律くんが優しいから、私たちが頼りなくて甘えてばっかりだったのを気づいてないだけだよ」
いつも明るいかなでには珍しく、とても深刻な顔でそう否定されてしまい、律はしばし言葉を失ってしまう。
「だからね、決めたことがあるの。元々それを話すつもりで来たんだけれど・・・今、時間大丈夫?」
「・・・分かった。そこにかけてくれ」
今度は、何かを決意したように迷いのない表情で切り出した幼馴染みに、ただならぬものを感じた律は座っていた椅子から立ち上がると、彼女をベッドに座るよう促し、自らも隣に腰を下ろした。
「それで、お前は何を決めたんだ?」
「うん・・・1stの話だけど、私、引き受けることにした」
「・・・!引き受けて・・・くれるのか?」
こっくりと頷く彼女を見て、律は思わず安堵で息を大きく吐き出していた。
「・・・ずっとね、考えてたんだ。
どうして、律くんはずっと腕の、怪我の事を隠して我慢し続けてしまったんだろう。
なんで、相談してくれなかったのって」
かなでが俯いて、ぽつりと呟く。
横浜に転校して来て、律とまた毎日会うことが出来て、学内選抜で選ばれて、一緒に演奏できるようになって。
それが嬉しくて嬉しくて仕方なくて、彼が離れていた2年の間に、腕を痛めてその痛みに一人で耐えていたなど想像もしなかった。
響也だって、彼の弾き方が変わったことに気づいたというのに。
そばに居たのに、自分の事ばかり考えて浮かれるばかりで――彼の抱える痛みに気づくことが出来なかったのだ。
「でもそれは私たちが頼りないから、痛いのを堪えるしか、なかったんだよね。
怪我の事聞いた時・・・気づけなかったのが悲しくて悔しかった。
律くんに全部、背負わせてしまってたんだって気付いて・・・」
肝試しでも、律と一緒なら怖くないだろうと思って、迷わず彼と組んでもらった。
けれど、その時も自分を気遣って、彼も怖かったのに我慢して、そう見えないように振舞ってくれた。
今だって、自分自身の事だけ考えたっていいくらいなのに、かなでたちの事を心配して気を揉ませてしまってる。
「だから、考えたんだ。今、どうすることが、一番律くんの助けになれるのかって」
そう言うと、かなでは彼の手に自分の手をそっと添えて、その顔を見上げる。
「もちろん、それだけが理由ではないけれど・・・そもそも、星奏学院に来たのも、オケ部に入ったのもヴァイオリンが上手くなりたいからだし。
でも・・・今はもう私たち離れていないんだよ?」
自分が1stをやる事には、まだまだ多くの課題が残されている。
技量も神南や、全国大会でこれから出会うだろう、多くのライバルたちに比べれば、今のままのかなででは力不足で。
それゆえに、大地が反対するのも、東金に対等に見てもらえないのも、分かっている。
律に比べたって見劣りするのは言うまでもないし、今日だって東金の演奏を聴いて、敵ながらその音に惹き付けられずにはいられなかった。
だけど、それでも、自分たちは今はこうして一緒に居るし、大地や響也やハル、選抜メンバーじゃないオケ部のみんなも、律のそばに居るのだ。
「東金さんと競う事で、きっと私のヴァイオリンももっと良くなると思うの。
それに私だけじゃない。みんな律くんのそばに居る、だから・・・」
と、ここまでで、とうとう抑えていた感情を堪えきれず、かなでは律に抱きついて、その胸に顔を埋めた。
「もっと私たちを頼って・・・もう一人で全部背負って我慢しないで・・・。
律くんがあんな風につらそうな顔するの、もう見たくないよ・・・」
嗚咽を漏らしながら、かなでは彼にしがみついた。
この幼馴染みの唐突な行動には慣れていたはずだが、律は突然抱きつかれた事に、しばらく頭が付いていかず困惑していた。
だが、柔らかな髪が頬をくすぐったのに気づくと、自分の胸に押し付けられたその顔を何とか見ようと、彼女の顔を覗き込む。
はらはらと瞳から透明な涙の粒が零れ落ち、小さな肩が震えるのを見て、胸に痛みが走った。
「すまない・・・お前を苦しめてしまったんだな」
困ったようにその眉を下げ、律は謝ると、それでも泣きやむ様子のないかなでを宥めるように、その触り心地がいい髪と背中を優しく撫でる。
自分の怪我の事を話したり、弱音を口にすれば、みなを不安にさせ、負担もかけてしまうと思った。
だから口にしない方がいいと考えて、伝えないままにしていたが、それがかえって彼女にまでつらい思いをさせてしまったのだと気づき、彼は顔を苦しげに歪める。
「だが、これだけは分かって欲しい。俺はお前たちを信じている。けして負担に思ってなどいない」
何とか彼女に信じてもらおうと、律は彼なりに懸命に言葉を探して、伝えようとする。
「・・・小日向、お前が来てくれて、本当に嬉しかったんだ。
お前が俺の言葉を素直に聞いて、真摯に努力している事も知っている」
確かに、今のかなでのままでは、高い実力がある東金たちに勝てないのは分かっている。
それでも、これまで彼女は、以前は言い争いばかりしていたアンサンブルメンバーをまとめる事に成功した。
彼女自身の演奏も、周りのアドバイスを素直に聞き、けして諦めず努力を怠らなかった事で確実に良くなってきている。
「それに、お前が隣で笑っているのを見ると、安心する。
不安になんて感じていないし、もう既に十分支えてもらっているんだ」
だから、と、律はかなでの頬を両手で包み込み、その顔を上げさせると、彼女にしか見せない極上の微笑で告げる。
「・・・笑ってくれないか、お前の泣き顔を見ると胸が痛む。
これからは無理をしない。お前たちを頼りにすると約束するから」
その言葉を聞くと、ようやく彼女は泣きやみ、律がよく知るいつもの、彼の心を暖かくする笑顔を見せてくれた。
「・・・うん、これからはずっとそばにいる。
支えになれるように、1stの役目を果たせるように頑張るから・・・
だから律くんは安心して、見守ってて。律くんが見てくれてると思えば、私は舞台から逃げずにちゃんと向き合えるんだよ」
それは、かなでにとって心からの本音だった。
いつからか、理由は分からないのだが、かなでは舞台に立って演奏する事が怖いと感じるようになった。
ヴァイオリンを弾くことは、ずっと楽しくて仕方なかったはずなのに。
けれど、ヴァイオリンを上手くなりたいと思う一心で、全国大会出場に名乗りをあげた。
そして何とか選抜メンバーになれたものの、やはり舞台に立つのは緊張するし、長い間抱いてきた恐れは、簡単に消えるものでもない。
だが、律が一緒に演奏してくれて、舞台袖で見守ってくれると、不思議と安心して演奏できたのだ。
「地方大会の時、律くんがどんなに全国優勝したいのか、痛いほど伝わって。
みんなで頑張って演奏して勝つ事ができて、すごく嬉しくて・・・私、負けたくないってあの時本当に思ったんだ」
彼を安心させたいがために、かなでは泣き過ぎて目が少し腫れて痛むのを我慢して、精一杯笑いかける。
「だから皆で頑張ろう。全国優勝、絶対しよう。一緒に頑張りたいの・・・いいよね?」
そう微笑みながらも、泣いてすっかり目は赤くなってしまい、瞳に残った涙がキラキラと光って。
それでも、自分のために一生懸命笑ってくれる彼女のその笑顔が・・・とても綺麗だと、律は思った。
ずっと自分の後ろを追いかけてきてた小さな幼馴染み。
初めて会った時は、小さく愛らしい少女を見て、新しく兄弟が出来たようでとても嬉しかった。
けれど、その守るべき存在だと思い続けていた相手は、自分を支えると力強く、真っ直ぐこちらを見つめながら告げてくる。
いつの間に、こんなにも強く綺麗になっていたのか。
今の今まで気づきもしなかった事が、不思議で仕方ない程に、今のかなではとても輝いていた。
「ああ、頼りにしている。だが・・・俺はお前に頼りにされるのが嬉しいんだ。
だから遠慮はしないで欲しい、お前が支えになると言ってくれるのは嬉しいが、俺もお前の力になりたい」
すると、今度は律の方がかなでの華奢な体を抱き寄せて、囁く。
この温もりを感じるたび、心地よく響くその声で名を呼ばれるたび、胸を芯から暖かくする彼女の音を聴くたび、励まされてるのは自分の方だと・・・彼女は分かっているのだろうか。
かなでの成長を誇らしく思う一方で、あまり強くなり過ぎて頼ってもらえなくなるのも、彼女を守りたいと思う律にしてみれば、寂しいのだ。
それが矛盾していて、我侭な感情だと理解はしているのだが。
しかし、そんな律の複雑な心境とは裏腹に、かなでは嬉しそうにえへへと笑うと、さらに彼にピッタリとくっつきすり寄ってくる。
「大丈夫。心配しなくても私のヴァイオリンはまだまだだもん。もっともっと律くんには教えてもらわなくちゃ」
だから、ちゃんと自分を大事にしてね、と彼女は屈託なく微笑んできて。
それを見て律はつられるように笑い、ようやくこの胸に抱く不可思議な想いの正体に気づいた。
(「ああ、そうか・・・俺は小日向の事を」)
彼女への特別な気持ちに気づいた途端、愛しさが込み上げて来る。
そして、その想いのままに、この腕の中に閉じ込めて、この綺麗な笑顔を他の誰にも見せたくないという衝動にかられるが。
それを必死に耐えて、律はもう一度かなでの頭をそっと撫でながら、彼女の言葉に頷くのだった。
自分が求めてやまない夢は遠い場所にあって、先はまだ見えないけれど。
君が隣で笑ってくれるから、一緒に居るから。
この手の中にあるその光があるなら、きっとたどり着くことができるから。
共に目指そう。
いつか叶うその時まで。
あとがき☆
はい、そんなわけでようやくアップできたちゃんとした律かな短編です!
今更ですが、やっと3のヴォーカル集を聴く事ができまして、律の「夢の軌跡」を聴いて思い浮かんだ話ですよ。
律の腕の怪我が発覚するイベントは、何度見ても泣いてしまうのですが・・・
でも、あれとか、初恋イベントや肝試しのドルチェタイムを見てても、やっぱり律はかなでちゃんをいつも守ってくれる立場なんですよね。
だから、かなでちゃんが彼を支えられるようになった時が、この二人の関係が変わる時でもあるんじゃないかな〜と。
そして律の事大好きな彼女が、あの時平気だとは思えないけれど、滅多に弱音を吐きそうもないですし、律の前でだけ彼女は泣けるというイメージなのでこんな感じになりました。
まあ、後は律がかなでちゃんへの想いを自覚する所が書きたかったというのもあります。
それにしても、部屋で二人っきりだというのに、どうも糖度があまり高くない気がするのですけどね(笑)
それはこの二人だからなのか・・・もしかしたら私の文才がまだまだだからかもしれないですね、精進します(笑)
でも、お互い相手を何より大事に想っているという事はめいっぱい詰め込んだつもりなので、それを感じていただけたら幸いです☆
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