2月14日、冬海の家の前。
バイト帰りの火原が息を切らしながら立っていた。

「うわ〜!聞いてはいたけど、すっごい大きい家!
やばい、緊張してきた・・・」

一度も来たことのなかった彼女の家に、彼が何故急に来ることになったのか。
事の発端は数時間前にさかのぼる。


「もしもし、笙子ちゃん?」

「お、おはようございます。その、突然お電話してすみません」

「全然いいよ!でもどうしたの?電話なんて珍しいね」

自分からはたまに電話する事もあるが、冬海からはメールならともかく、電話はほとんどないので新鮮だ。
などと考えていると、電話越しでも話すのをためらう気配が伝わってきた。

(「な、何だろう?もしかして、最近忙しくてあまり会えなかったし・・・
まさか、別れ話とか?!」)

悪い想像が突如頭を駆け巡って、火原が一人真っ青な顔になる。

しかし、少ししてためらいがちだが、はっきりとした彼女の声が耳に届いてきた。

「あ、あの。もし、先輩がよろしければ今日、家に来ていただけませんか?」

「俺が?笙子ちゃんの家に?」

「は、はい。お渡ししたいものがあって・・・で、でも、和樹先輩がご都合悪ければ、別の日でも・・・」

「ううん、行く行く!バイトがあるからその後になるけど、それでよければ!」

突然のお宅訪問はもちろん驚いたが、せっかくの彼女の招待だ。
受けないはずがなかった。

「よかった・・・じゃあ、お待ちしてます」

「うん!終わったらすぐ電話するから。夜になっちゃうけどごめんね」

「いえ、いいんです。私が突然言い出したんですから・・・えと、待ってますね、失礼します」

そのやり取りの後、バイトを終えた火原はすぐ冬海に電話してから彼女の家に急いで向かった。
さらにその途中で、通りがかった花屋にあるガーベラに目を奪われる。

(「あ、こういうの笙子ちゃん好きそうだなー。お花好きだって言ってたし」)

淡い色合いのピンクの小さなガーベラ。
それをたくさん使われた小さな愛らしい花束は、彼女の柔らかな笑顔にとてもよく映えるだろう。
せっかく冬海の家に初めてお邪魔するのだ。何か手土産くらいは持って行った方がいいだろうと火原はとっさに思った。

「すみません、この花束を一つ下さい」

決めたからには即行動、という彼らしく思いついた次の瞬間には、もう店内に入って最初に目に入ったそれを迷わず手に取る。
喜ばれるかな、と花束を見せて彼女が見せるであろう笑顔を思いながら、火原は自然と笑っていた。


そして、冒頭の状況に至るわけである。

「だ、だけど。やっぱあんまり女の子を待たせちゃいけないだろ、しっかりしろ俺!」

と一人、火原が自分に活を入れると、直後中から扉を開ける音がした。

「あ・・・お待ちしてました、和樹先輩。来てくださってありがとうございます」

「笙子ちゃん!いいよ、お礼なんて!俺こそ招待してくれてありがとう」

顔を見合わせ、しばし照れくさそうにお互いもじもじと目を泳がせたり、俯いたりしていたが、火原の方が口を開いた。

「そ、それで、俺に渡したいものって何かな?」

すると一層冬海が顔を赤く染めて、一瞬間が空いてから目の前に綺麗な包装紙やリボンや花でラッピングされた箱と包みを差し出される。

「あ、あの・・・今日は、バレンタインなので、その・・・プレゼントです」

「え・・・これを、俺に?開けてもいいの?」

こくりと頷かれたのを見て、火原は渡された箱と包みを交互に開けた。

「チョコレートのケーキと・・・セーター?」

「は、はい。先輩はケーキがお好きだから・・・気に入っていただけましたか?」

しばし本気で彼には珍しく、言葉に詰まった。

「あ、あの・・・先輩?」

「・・・ごめん、嬉しすぎて・・・言葉が出なかった。本当嬉しい。
ケーキおいしそうだし、セーターも俺の好きな赤い毛糸使ってくれて・・・ありがとうね」

どれだけ彼女がこれを作る間、自分のことを考えてくれたのか。言わなくても十分に伝わった。
その気持ちが自分にとって、何より尊い贈り物だ。

「よかった・・・先輩が喜んでくださるなら、私もとても嬉しいです」

「本当にありがとう。あ、そうだ!俺からもこれ、プレゼントなんだけど受け取ってくれる?」

あまりの嬉しさにすっかり舞い上がって忘れそうになったが、思い出し慌てて買った花束を彼女の手に乗せる。

「わあ・・・可愛いですね、ピンクのガーベラ・・・すごく嬉しい。ありがとうございます」

「ううん、俺こそこんなにすごいプレゼントもらっちゃったんだから」

喜ぶ顔を見れて、この上ないバレンタインの贈り物をもらえたと、火原は心底思うのだった。



「さーて、練習場所の講堂に来たはいいけど、どこにいるのやら・・・」

目的の物を持参して土浦に会いに来たが、姿が見えず、天羽はキョロキョロする。
だが、そこは目敏い彼女。すぐに彼を見つけて素早くそちらに向かった。

「おーい、梁太郎ー!」

「菜美?!」

神出鬼没な天羽ではあるが、練習の打ち合せに没頭していた土浦は、彼女の来訪を予想しておらず、驚いたようだ。
してやったりとにやりとする。

「おーいい反応♪驚かせられたか」

「仕方ないだろ。前はよく取材に来てたけど、最近はお前も忙しくてあまり来なくなってたんだから」

ムッとしたような顔をしたものの、付き合ってそろそろ一年近くになる二人である。
それが自分が最近会いに来なかったことへの少々の不満と、会いに来たことに対する照れ隠しであるのはたやすく見抜けた。

しばらく互いに勉強やら部活やらバイトやらで会わない日が続いている。
だけど、この日ばかりはと、天羽はバイト先に平日にシフトを入れるのを条件に、この2連休は休みをもらった。
そして今度、土浦が指揮者デビューする事になった音楽祭に向けた、彼のオケの練習にやって来たわけだ。

「まあまあ、今日は差し入れ持ってきたんだから、そう怖い顔しない。はい、どうぞ」

「お、差し入れか、どれどれ・・・」

やはり照れ隠しだったらしく、天羽が箱を渡すと土浦はあっさり受け取り、箱を開ける。

「チョコのパイか」

「見た目だけならね。ちょっとした隠し味もあるんだ〜食べてみてよ」

「へえ、言ったな?俺の判定は厳しいぜ」

言いつつも、面白そうな顔をした彼は受け取ったパイを、一切れーー元から一切れずつ切ってあったそれを頬張った。

「これは・・・レモンを使ってるのか」

「そ!レモンの果汁と皮を使ったの。甘いものもだけど、クエン酸も疲れを取るって言うし、こういうレシピもあるって教えてもらったからさ」

「美味いな。意外な組み合わせだが、チョコの甘さをいい具合に抑えてるし、香りもいい」

「お、やった!梁太郎が褒めてくれるとはね」

「失礼だな。俺だっていいと思ったら褒めるくらいするさ」

そうは言っても、いつも自信満々だが、音楽だけでなく、料理もなかなかの腕前の彼に褒められたのは素直に嬉しい。
しかも、他の誰でもない彼のために作ってきたのだから、美味いと言って貰えれば作った甲斐があるというものだった。

「あー!いいなー土浦先輩、俺たちにも少し分けてくださいよ」

しかし、そんな傍目に見ても美味しそうなパイを認め、当然のことながら後輩たちが羨ましそうに寄ってくる。

「駄目だ、これは俺のためのもんなんだから」

「え・・・気づいてたの?」

「ああ、今日はバレンタインだからこんなチョコ使ったのなんて、俺っぽくないもの作ってきたんだろ?」

正直、そういったことを覚えてなさそうな土浦が気づいたことに天羽は意外で目を丸くする。

「へえー意外。全然覚えてないかと思ってたよ」

「あのな、俺だって一応気にしてたんだよ。・・・お前とは付き合ってるんだから、さ」

その上、普段そういったことを口にしない性格なのに、いきなりそんなことを言って、頬を赤くしながら頭をかき横を向いたりしたら、こちらまで照れくさくなる。

「うわー・・・やめてよ。こうならないように軽い調子で話してたのに、何かこっちまで恥ずかしくなるじゃない」

「たまにはいいだろ、バレンタインだし、な。・・・サンキュ、美味かった、本当に」

でも、確かに、たまにはいいかもしれない。
こんな風に、自分たちが甘酸っぱい恋人らしいやり取りをするのも。
恥ずかしそうながらも、強面の彼なりの、精一杯の笑顔と優しさを見て、天羽はそう思った。

「ちえーいいなあ。本命チョコくれる彼女がいてー」

しかし、明らかに惚気る二人を見て、横にいた後輩たちは口を尖らせる。

「まあまあ、みんなにも差し入れは持ってきたからさ」

「持ってきたのか?」

「そりゃ、ここに来てあんたにだけってわけにもいかないでしょ。
あたしの手作りではないから許してよ」

「・・・まあ、仕方ないか」

彼氏の許しを得た天羽は、他のオケメンバーにも差し入れを配るべく、持ってきた紙袋から駅前で買ったケーキの箱を取り出し始めた。



王崎が自室で譜読みをしていると、コンコンとドアをノックする音が部屋に響く。

「はい、どうぞ」

「シノブ?日本から荷物が届いてたから持って来たわよ」

「あ、ありがとうございます」

届いた荷物の内容はあらかじめ聞いてたので、自然と彼の声が弾んだ。

受け取ったダンボール箱をカッターで手早く開けると、中から出てきたのはMDと綺麗に包装された小さな箱が一つ。
MDは、去年の星奏学院高等部の受験を控えた入学希望者のための歓迎会の時、都築と香穂子が再び組んだオケの演奏が入っている。
しかしもう一つの箱の中身は聞かされていなかったため、王崎は首を傾げる。

「何だろう?都築さんは演奏の入ったMDは送ってくれたって言ってたけど・・・」

呟きながら箱を開き、彼はようやく納得した。

「ああ、そうか。今日はバレンタイン・・・だったな」

そちらの中身はシンプルなトリュフが数個、彼女らしい内容のチョコレートの詰め合わせ。
数は少ないながらも、高級そうなものばかりが入っており、一粒口に運べば上質な洋酒の香りが口いっぱいに広がる。
甘いだけでない、少しほろ苦くけれど上品な香りーーまさに都築をイメージさせる味だった。

「嬉しいけど・・・参ったな」

都築からのトリュフを少しずつ食べつつ、送られたMDのオケの演奏を聴いていたら無性に声が聞きたくなる。
迷惑な時間でないか腕時計を確認したものの、いてもたってもいられず、王崎はすぐに携帯の通話ボタンを押していた。

「ーー王崎くん?」

「もしもし、都築さん?急にごめん、今時間大丈夫?」

「ええ、大丈夫だけれど」

急な電話で、練習の邪魔でもしたのでないと分かったのと、久しぶりに聞いた気がする声に変わりがないことに、彼はホッとする。

「よかった。MDとチョコレート届いたよ、ありがとう」

「あら、それでわざわざ電話をくれたの?律儀ね、忙しいんじゃない?」

「大丈夫、それに・・・都築さんがくれたチョコレートを食べてたら、何だか急に声が聞きたくなったんだ」

電話の向こうで彼女には珍しく息を飲むのが聞こえた。

「・・・本当に、かなわないわね。あなたには」

「そうかな?俺は都築さんの方がいつもすごいなって思うよ・・・どんな時も気丈で強いなって」

本当に、彼女はどんな時でも弱音は滅多に吐かない。
その常に変わらぬ、凛とした姿と揺るぎない音楽への志は、何度も王崎の背中を押してくれる。
ウィーンのコンクールで優勝してから変わった自分の状況に、戸惑い孤独を覚えていた時にも、都築はけして甘やかさず苦言を呈した。
それは、真実自分を案じ、大切に思ってくれてるからこそ、厳しく接してくれたのだと今なら分かる。

「俺は君に何度も励まされてきたんだ。ありがとう」

「水臭いわね。今更そんな遠慮をするような間柄でもないでしょう、お礼を言うことなんてないわ」

「でも、俺がただお礼を言いたいんだよ、本当にありがとう」

「ーーまあ、いいわ。それよりもどう?調子は」

何処か照れたように話を変えられ、彼はやっぱり変わらないなと小さく笑う。

「悪くないよ。あれからウィーンに来て、あの頃はボランティアを断られたり、どこに行っても注目されて・・・色々変わって失ったかと思ったけど」

実際は、こちらに来てからも日本にいた頃のように、近所の子供たちにヴァイオリンを教えたり、道行く街の人とも普通に話したりして。
失ってしまったものなんて、それほどなく、むしろ海外に出て自分の世界は広がったと思った。音楽だけでなく、他にも様々な意味で。

「色々なものを見れて、前よりもたくさんの音楽が聞けて、出会いがあってーー俺の世界は広がった。今ならそう思えるんだ」

「そう・・・よかったわ。もう大丈夫そうね」

「心配させてごめんね」

「遠慮しなくていいって言ったでしょ」

「はは、ところでそっちはどう?また日野さんと一緒にオケやった感想は」

「言うまでもないわね。まだこれからってとこだけど、成長が早いし、先が楽しみよ、日野さんも土浦くんもね」

ちょうど一年前の今日は、音楽に対して妥協がない彼女が、確かに香穂子の実力を正式に認めた日だ。
一年経った今もその信頼は揺らがないのだとーー演奏を聴いてもそうだが、都築のその誇らしげな声から伝わってきて、また王崎は微笑んだ。

「そうか、みんな俺にとっても大切な後輩だから、都築さんがそう言ってくれると嬉しいな」

「全く・・・あなただって色々やることあるでしょう?こっちの心配はしなくても大丈夫よ。
ああ、そうそう・・・私ももう四年だから、進路決めなきゃなんだけど・・・実は私も留学しようかと思って」

「えっ?!本当に?」

「そんな嘘ついてもしょうがないでしょ、本当よ。・・・あなたを見てて、私も、一度くらいは海外で学ぼうかと思ったのよ」

多分、将来的には指揮科で専攻しているからプロオケに入ることになるだろう。だからいずれは海外での公演もあって訪れる事もあるかもしれない。
けれどそうではなく、自分ひとりの実力がどこまで世界に通用するかーー見てみたくなったのだと彼女は言った。

「演奏者だけでなく、指揮者のコンクールもあることだし、そういった場で自分以外の指揮者の実力を知るのもいい勉強になるし、他にも色々得られるものはあるでしょうしね」

「そうなんだ!うわあ楽しみだな、行く先は決まってるの?」

「ええ、チェコで有名な指揮者の方が指導をしてくださるそうよ」

「だったらまた会えるね。共演もできるかもしれないし・・・あ、コンクールも見に行くから日程教えてくれる?」

「そうね、約束する。でも、共演はまだまだでしょ。あなたはもう有名ヴァイオリニストだもの」

「だけど、都築さんが優勝したらできるかもしれない。楽しみにしてるから頑張って」

「・・・そこまで言われたら頑張るしかないわね。まあやるからには手は抜かないからそのつもりでいてちょうだい」

「うん、きっといつか・・・待ってるから」

彼女が指揮で、自分がヴァイオリンで。共に同じ舞台に立つだろう、その光景はとてもたやすく互いの脳裏に浮かんで、どちらもそっと笑っていた。



聖バレンタインデー−−それは恋人たちを祝福する日。
全ての恋人たちに幸多からん事を・・・・・。

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